今も大切に守られている親鸞聖人の考え

親鸞聖人は、生涯、法然の弟子であることを喜びに感じ、独立して新宗派を開こうとは考えていませんでした。しかし、独立に関して生前から論争を繰り返してきた門弟らは、親鸞聖人没後に3つのグループに分裂してしまいます。

それとは別に、親鸞聖人の末娘、覚信尼は、聖人入滅から10年後に、京都の大谷に遺骨を移して廟堂を建て、聖人の御真影を安置しました。これが、現在の東本願寺の元となる大谷本廟です。

その後、大谷本廟の継承者を巡って、親鸞聖人の遺族の間で長い争いが起こり、1321年に本願寺と改名して寺院となりましたが、1400年代に入っても後継者争いは続きます。

1471年、蓮如上人の代のころになると、本願寺は寂れてしまい、参拝する人もまばらになりました。そこで、蓮如上人は親鸞聖人の著作を使い仏事儀式を整え、本願寺の改革を行います。その甲斐あって、門徒宗との強いつながりを復活させました。

ところがその人気を面白く思わなかった比叡山の衆徒に、本願寺は壊されてしまいます。これに対抗して近江(今の滋賀県)の真宗門徒が蜂起したのが、あの有名な一向一揆です。

蓮如聖人は積極的に念仏の教えを広めますが、するとまた既存勢力や政治権力の反発に遭い、それに対抗して一向一揆も広がります。こうした現状を嘆いた蓮如上人でしたが、地道に全国に門徒を増やし、本願寺の再建を果たします。

本願寺は法華衆徒による焼き討ちを経て、大阪の石川に移転し、そこを本山と定めました。わずか12歳で本願寺宗主となった顕如上人は、武家や公家とのつながりを強め、浄土真宗を盛り上げます。しかし、そこへ織田信長より明け渡しが要請されました。本願寺はこれを断ると、1570年、全国の門徒や大名を巻き込んだ戦いが始まります。石川合戦です。

石川合戦に破れ、寺を明け渡すことになった本願寺ですが、織田信長の死後、豊臣秀吉からは優遇を受け、京都堀川七条の土地を授かります。ところが1602年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康からは烏丸六条の土地も寄進され、それをきっかけに石川合戦の戦い方を巡って対立していた2派が分裂し、そこにもうひとつの本願寺を建てたのです。新しい本願寺は、元々の本願寺の東に作られたので、東本願寺と呼ばれるようになりました。

東本願寺は、その後も徳川幕府の優遇を受けましたが、明治維新後は、新政府との関係を深めるために、北海道開拓事業を請け負うなどして貢献しました。そのため、北海道の移住者には、真宗大谷派の人たちがもっとも多かったと言われています。

元々の本願寺は、西本願寺とも呼ばれ、浄土真宗本願寺派の本山となってます。

明治時代には、東本願寺の僧侶にして哲学者の清沢満之によって、東本願寺の近代化を目指した宗門改革運動が始まりました。清沢は、蓮如上人から「みだりに人に見せてはいけない」と言われてきた秘密の書『歎異抄』を世間に広く知らしめたことなどから、多くの宗教人や哲学者に影響を与えます。1965年の中央公論4月号の座談会「近代日本を創った宗教人100人を選ぶ」で、司馬遼太郎が清沢の名前を出したことで、世間に知られるようになりました。西洋近代哲学の観点から浄土真宗の教えを見つめ直した清沢満之は、仏教の近代化に大きな功績を残しました。

親鸞聖人七百回御遠忌の翌年にあたる1962年、親鸞聖人の教えに帰ろうという真宗同朋会運動が始まりました。「大谷派に一万の寺院、百万の門信徒があるといいながら、しかも真の仏法者を見つけ出すことに困難を覚える宗門」との真宗大谷派宗務総長、宮谷法含の嘆きから起きたものです。門徒ひとりひとりが親鸞聖人の教えを今一度よく考え、寺院は聞法道場としての機能を取り戻すことを目指しています。その考え方は、21世紀の今も大切に守られています。