「弟子一人ももたず」の親鸞聖人
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源平の戦いで国中が荒廃した1173年、親鸞聖人は京都で生まれます。9歳のときに天台宗の僧、慈円の下で修行し、出家得度しました。
その後20年間、比叡山で厳しい修行をしますが、煩悩を断ち切ることの難しさを実感します。山を降りた親鸞聖人は、京都の六角堂に100日間籠もり、自分を救う道はあるのかと本尊の救世漢音に問い続けました。
すると95日目の明け方に、救世観音が夢枕に立たれました。そして、もしあなたが女性と交わりたいと思えば、私が玉女という女になって相手をしましょうと言われました。
当時、僧侶は女性と肌を合せてはいけない決まりになっていましたが、女性と交わらなければ子供は生まれません。その矛盾に苦しんでいた親鸞聖人に、この言葉は救いでした。
さらに、観音様は、阿弥陀如来の救いを一切の人に説き聞かせなさいと命ぜられました。観音様の夢のお告げによって、人はあるがままでよいと悟った親鸞聖人は、多くの人に教えを説いたのです。
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その後、親鸞聖人は法然のもとを訪れ、ひとつ念ずれば、絶対に阿弥陀仏が現世で救ってくださるという「一念往生」の考え方を会得しました。
親鸞聖人はこの教えを広く伝えると、階級を問わず、多くの人たちの間で大人気となりましたが、それに従来の仏教界は危機感を覚え、法然や親鸞を弾圧し始めました。34歳のとき、親鸞聖人は越後国(今の新潟県)に流刑となります。
やがて流刑が説かれ、今の上野国(今の群馬県)に滞在中、経典の勉強をしよと思い立ったのですが、読み始めてすぐに気が付きました。自分が阿弥陀仏に救われ幸福になった姿を人に見せて、幸福になれる方法を人々に教えればよいのだと。そうして布教の旅に出ます。
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親鸞聖人は、30歳代で結婚し、7人の子どもをもうけたと言われています。また、仏教では固く禁じられていた肉や魚も食べました。そうしたことは仏教では罪とされていたのですが、一般の人たちと同じように異性と交わり、肉を食べても、阿弥陀仏は救ってくださるということを親鸞聖人は体現していました。
1262年、今から約750年前に、親鸞聖人は90歳でその生涯を閉じました。亡くなるときに、こんな言葉を残しています。
「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」
いつでも親鸞は、あなたと共にいますということです。
親鸞聖人が開祖とされる浄土真宗は、親鸞聖人の没後に門徒たちによって開かれました。ちなみに、親鸞聖人は「弟子一人ももたず」と言われていました。それは、誰もが阿弥陀仏の弟子として平等であるという聖人の考えを表しています。